60年代のマーヴィン・ゲイについて(→<a href="/ghostlawns/searchdiary?word=%2a%5bGaye%2c%20Marvin%20%2f%20intro%5d">解説Top</a>)

Marvin Gaye in the 60s

60年代のマーヴィン・ゲイ

【1960年代】


60年代のマーヴィン・ゲイは、モータウンという巨大なヒット製造のシステムのうえにのったスターであり、60年代の黒人シンガーの多くがそうであったように(そして80年代以降の黒人シンガーのほとんどがそうであるように)、基本的には、与えられた素材に歌をのせる専業シンガーでありました。ただ、マーヴィンはもともとドラマーという裏方としてモータウンに関わったらしいし、また、社長のベリー・ゴーディの妹と結婚したということもあり、純粋な「専門シンガー」にくらべるとある程度の自由度があったように見受けられます。それは、大して売れもしないのに本人の趣味でしつこくポピュラーバラードのアルバムを出し続けたことにも見てとれますね。結局、ポピュラーシンガーとしては成功せず、ソウル・シンガーとして、「アイル・ビー・ドッゴーン」「エイント・ザット・パティキュラー」「ハウ・スウィート・イト・イズ」といったモータウンらしいジャンプナンバーをいくつもヒットさせます。

しかし彼は60年代後半あたりからそのヒット製造システムと自分の表現ということのあいだのギャップになやみはじめたといいます。その一種の「ジレンマ」期である60年代後半にも、ノーマン・ウィットフィールドが手がけた「悲しい噂」などのメガ・ヒットを軽く生んでしまうのが天性のスターの恐ろしいところです。

また、60年代のマーヴィンの活動で忘れてはならないのが一連のデュエット作品。モータウンはグループもので売っていたせいか、ソロ・シンガーであるマーヴィンに女性ボーカルをあててしつこくデュエット作品をつくらせます。大物だったメアリー・ウェルズ、無名のキム・ウェストンとのデュエットを経て、3度目の正直、タミー・テレルとのデュエットは黒人音楽史上に残る「最高のデュエット」として名を残すことになります。「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」や「エイント・ナッシング・バット・ザ・リアル・シング」といった大ヒット曲での、マーヴィンと「可憐な妹」タミーのマジックは、ポップ音楽史上でもひときわ輝いているといえるでしょう。マーヴィン自身もタミーとの仕事は心から楽しんでいたようです。

ところが、その輝きとは裏腹にタミーは脳腫瘍という病魔におかされつつありました。1967年のヴァージニアでのコンサート中、ステージの上で、タミーがマーヴィンの腕の中に倒れ込んだのは有名なはなしです。そしてタミーは闘病の甲斐虚しく1970年に他界してしまいます。この出来事はあらゆる意味でマーヴィンに転機をもたらすことになります。

(初稿 11/5/96; 最終改訂 5/30/02)